小説・ダークランズ(3)

 白い部屋はそれから二日で完成した。床も白だ。二畳間との仕切にはカーテンレールをとりつけ、白いカーテンでしきった。閉め切るとまだペンキの匂いがなまなましい。四隅に立てた蛍光灯の白い光に照らされて、死人もベッドも運び去られた清潔な病室か、あるいはそれを模したギャラリーの一室のようだった。寝床やその他必要最小限の家具、それら生活の臭いは二畳間とベランダをつなぐ四畳間に移された。
「何もない白い部屋に住みたい、そんな部屋があればいいだろうと。カスミさんが言っていた事を実際にやってみたくなった。彼女の生活環境、金銭感覚、気の触れ方じゃ結局無理だったけれど。」
 そして翌日から、双子の妹があらわれる。白い部屋の中央の白いマットレスの上でシーツにくるまって、昼夜の境もなく眠り、長い夢を反芻しながら彼女と彼は睡眠薬を分け合う。甘い息につつまれた言葉を囁きかける。あぁ、私たちは確かにそうだったね、違うの、いいえ。わたしはそう。確かにそうだったろう、お前の言う事ならば−双子というからにはもう少し似ていてもよいはずなのに、どういった塩梅か、彼女の小づくりな顔立ちは彼の荒削りなごつりとした顔の部分部分とはまるで違っていた。ただ、切れ長の目から深い眼窩を経由して鳥類にも似た鼻筋は瓜二つであった。見つめ合うようで交差しない目線の放出点の黒目が、時折泡立つ緑色の海のようにおぼろげになぎいている様が−双子であるからというより薬物に起因する方が多かったかもしれないが−よく似ていた。妻はどこへ行ったのか杳として知れない。あるいは隣の二畳間にいたのかもしれない。彼に気にかける様子は無かった。

 それから半年ばかりが過ぎた。夏だった。彼は深夜、電子機器の部品を作る工場で働いた。働いた金で白い扇風機を買った。白い部屋は生活の垢で滲み、汚れ、目の届くか届かないかのきわの所に体液の染みや髪の毛、体毛、が堆積していた。シャワーは浴び、晴れた日には洗濯もしてシーツも干すが、ぬぐいがたい臭みが二人の体から漂っていた。熟しすぎた果物の匂い。夏の匂い。セックスの匂い。毎朝仕事から戻ると首を振ったままの扇風機とひからびた爬虫類のように手足をぐねりと垂らした妹が彼を出迎える。ある日彼女は手に封筒を持っている。彼にその封筒を差し出す。今朝届いたよ、誰?彼は差出人に妻の名前を認める。「土曜日○時、Sで待ってます」文面はそれだけだ。昼間の日光はコンクリート越しに白い部屋を浸食し、湿気が細かい水滴となって壁が汗をかく。
 Sというファミリーレストランは彼の家からほど遠くない線路を渡った反対側の市道沿いにある。越してきて間もない頃、彼と妻は食事を作るのが面倒な時、よくここで遅い晩飯をすませた。彼は奥の方の座席に座り待つ。睡眠薬を噛み砕き、ビールを頼んだ。1時間が過ぎて、妻は現れず、彼は帰ろうと席を立つ。
 帰り道は線路沿いの金網の張られた道を通って、線路をまたぐ大きな歩道橋を渡った。風が強い。熱風にあおられた入道雲が夏の真っ青な空に異形を浮かべている。こんなに短い道でも、蜃気楼というものは見えるのだ。アスファルトの道路の先、曲がり角あたり、誰もいない道の先に逃げ水と、ゴミ集積所をあさるカラスの群れの切れ切れにゆらいでいるイメージが重なった。
 夜勤に出かける前に、眠りから醒めた彼に彼女が囁いた。本当は設楽カスミと寝たのでしょう?いや、一度もそんな事は無かった。寝たいと思った事も?少しぐらいは。それは同じ事ね。まるで違うだろう。そもそもこの会話がおかしかった。何故今頃そんな事をきくんだ。彼女は彼の腕をぎゅっと、思いもかけず強い力で握った。汗ばんだ手のひらと爪の食い込む感触。そして目を決してそらさずに、常にそうであったかのように彼を見つめるのだ。あなたは彼女と寝たはずだ。その視線を受け止めた。眠りの淵からまださめやらぬ彼の脳の中で薬物が激しく沸騰するのを、泡立つのを感じた。黒い鳥の目が二重写しに露光された写真の様に彼女の黒目に映って見えた。映ったのは歪んだ鏡像の彼の姿だった。設楽カスミは俺とは寝ていない、残念だった。どっちが残念だった?あなた?彼女?彼女の言葉が彼の頭の中で聞こえているのか現実に発せられているのか判然としなくなり始める。彼は腕を振りきって荒々しく靴を履き、白い部屋から外に出た。アパートの廊下の蛍光灯の強烈な明かりが白日のように目に飛び込んできた。その光の中には数えられないほど多く大小の羽虫や蛾が飛び交っている。(了)