小説・ダークランズ(2)

 翌朝、雨の中をS市の設楽カスミの実家に焼香に行った。雨が降っているというのに、空は眩しかった。晩秋であるのに妙に暖かい雨であった事はよく覚えている。彼女と寝た事は一度も無かった。設楽カスミは妻のいる男とは寝ない方針の持ち主だった。彼女とはライブハウスで会ったり、待ち合わせて酒を飲んだりした、そういう間柄だった。彼女は彼以上にひどい精神病者だったので、自殺したときいても特に驚きは無かった。死んでも仕方の無いような人だった。
 自殺しても仕方が無いとはどういうことか。彼は考える。狂気はわれわれの想像するような姿では立ち現れない。壊れるとはどういうことか。彼は考える。病気で脳が壊れた人はみな似たような顔つきをしている。そのことを彼は病院通いの経験から知っている。つまり、彼女もまた、狂気では無く、脳の病気で死んだのだ。そう考えて彼は結論めいたものを導き出した。
 そして彼にもまたあまり時間は残されていなかった。そう自分で思っていた。妻が家で待っている。快速電車は東京の南の方から中心部を避け走り、U駅で乗り換えて北東へ抜ける。座っている座席の目の前に立っている男の顔をじっと見つめていると、目の焦点が合わなくなりはじめた。三次元の中の男の頭部の毛髪はグリースで塗り固められていて何か呟いているようだったが、座席から腰が浮き上がりそうになるほどに立体的に見えるそれは彼の性欲を刺激した。みなもの狂っている、いや、彼だけが車両の中で一人もの狂っている。このようにして現れる狂気にどのように対処していいのかそれはわからない。必死で鍵を付け替える錠前屋の手つきで、彼は密室のポルノ漫画のあらすじを何度も反芻して平生を保とうと努める。
 N市についた頃、雨は駅ビルから吹き下ろす風をともなって激しさを増した。生ぬるさが心地悪かった。彼はある企み、見立てを思い付く。それが彼のオブセッションならば問題は全て解決し、あらゆる事はうまくいくはずである。そのような楽観に足元をすくわれてみたい。彼はDIYホームセンターで白いペンキ3缶、塗料を入れるトレイと大きな刷毛とローラーを買う。蛍光灯を4本買う。粗大ゴミ処理券を購入する。小さな脚立を買おうとして、それは家にあったことを思い出す。
 日は暮れている。夕食の買い出しに出かけたのだろうか、妻の姿は見あたらない。赤ワインで睡眠薬を喉に流し込んで、手始めに仕事場兼寝床の8畳間にあったものを片端からポリ袋に入れてベランダに放り出す。机や衣装棚は可能な限り解体して、中身は押入にしまう。睡眠薬が彼の脳に活力を与える。薄い膜に包まれたような意識と冷たい覚醒感が同居しているこの脳の痺れ、それが彼を突き動かす。逆に言えば、それが無ければ彼に出来る事はほとんどなかった。今朝の外出も、設楽家への焼香に出向くときも、彼は睡眠薬の力を借りていた。
 彼は着ている服を全て脱ぎ、白いペンキの缶を開け、トレイにゆっくりとペンキを満たす。天井の照明は取り外した。2畳間からの明かりを頼りに、ローラーに竿を取り付け、まずは天井からペンキを塗り始める。この部屋は二畳間に続く三面が壁だった。床も天井も、元はさえない木目だった。天井と両壁の下塗りを終えた頃、妻が帰宅する。
「どうしたの?」
「べつに、模様替えだよ」
「何も。何も今じゃなくても」
おびえたような呆れたような妻の視線から目をそらしたまま、彼は脚立の上で裸のまま一服する。