小説・ダークランズ(1)

 ちょうど去年の秋頃の事だったか。他人の声に意識が集中しない。蛇口から水の流れる音、遠くの環状線からの低い唸り、誰に向けて何をしゃべっているのか分からない自分の声。声と声はすれ違っている。あの頃、彼と妻はNの古いアパートに住んでいた。そうして終わりもない声の反復。「お前もそうだろう」「わたしはそうよ」「確かにそうだった」「いつでもいいのよ」そのような反復。会話を崩壊させる音の幻影を追いかけて、見失い、ふと振り返る。そんな風に暮らしていた。薄い空気の空白をまたいで敷居のサンダルを履き卵とベーコンを買いに行く。朝の光は弱々しく、白濁した意識のままくたびれたパーカーを羽織って家を出る。吐いた白い息が逆流してぬめるように肺にまとわりつく。レジの店員は決して目を合わせない。
 日がな、ポルノ漫画を描いていた。生計の手段ではなく、単に描いていた。双子の兄妹が密室で肢体を露わにする。しかし決して交わらない。商業誌の編集者の友人に見せると、「絵は綺麗だが、欲情しない」と簡潔に評された。いくぶん落胆したが、別に彼にとっては構わなかった。
 彼は多量の睡眠薬を自宅に保持し、それに依存していた。初めて心療内科で手渡された薬袋にぎっしりとつめこまれた抗鬱剤睡眠薬を手渡された時の事はよく思い出せないが、色鮮やかな錠剤と舌にざらつく感触に馴染んだ今では、睡眠薬抜きの日々は彼には考えられない。あの秋とそれに続く冬。むろん、睡眠薬、それに安い赤ワインの飲み過ぎで記憶は定かではない。鬱気の底で、薄ら寒い笑いを浮かべながら。0.5mmの中性ペンにまとわりつくあの部屋の埃。生きる事、死への希求、頭の内側の暗い井戸の底の濁った水。そのようなよしなし事は振り返れば鈍い色の塗料がかかったように繰り返しの日々に塗り込められ後へも先へも判然としなくなるものだが。
 卵とベーコンを冷蔵庫に詰めながら、彼はもの思うのだった。いつまでこのような暮らしを続けて行かねばならないのだろう。キッチンの2畳間に続く奥の仕事場兼寝室から妻の気怠い声がする。
「で、誰の話」
「どうせ…」
「どうせ?」
「気にはしないのだろう?」
「さぁ」
「だから設楽さんが自殺したのだよ」
「誰?」
「設楽香澄。シタラカスミ」彼は不明瞭な自分の発音をよく意識していたのでことさらサ行を強調して一音づつコールセンターのオペレーターのように発語した。
「さぁ…」気の抜けた妻の返事に辟易する事も無かった。全ては他人事。ましてそれが妻とは面識の無い人物であるならば。